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松茸を提げてからから僧笑ふ 鯉屋伊兵衛
<僧>とはお坊さんです。お坊さんが、松茸がいっぱい入っている籠を提げています。檀家の人から戴いたものでしょうか?そのお坊さんはまことに豪放磊落です。「どうだ、うまそうじゃろ!?町で買ったら高いぞぉ!!」「うん、いい香りがするわ……」「今夜は土瓶蒸しで一盃やるんじゃよ、愉しみだろう!!早く夜が来んかいのう……。人生なんのかんのと言っても極楽じゃよ。ハッハッハッ……」
鈴生りの柿が一本生家なし 田上石情
<生家>とは生まれた家です。久しぶりに訪れた故里には、もう自分が生まれた家はありません。新しい家が建ち、知らない人が住んでいます。ただ昔と変らないのは庭の大きな柿の木にたわわにみのっておる柿の實です。茫々として過ぎ去った歳月の遥けさを偲びながら、夕陽に照り映える柿を見ています。人間とは何なんだろうか……。人生とは何なんだろうか……。その哀愁に心が疼きます。
父の手を離さぬ幼女の秋の海 西尾 一
おとうさんと幼い子供が海を見ています。「花子、海は広いねぇ……。大きいねぇ。花子の好きな歌にもあったろう!?<海は広いな、大きいな>って……。どうした? そんなに強くおとうさんの手を握って……。そうか、今日は波がちょっと高いからねぇ……。優しいいい子になるんだよ、花子!!この海のように広い心のひとになるんだよ……な……いい子だね……」
林檎噛む歯に青春かがやかす 西島麦山
「いやあ羨ましいなぁ。林檎をほんとうにおいしそうに食べるんだねぇ。真白な丈夫な歯だなぁ……。さくさくと噛んで、見ていても気持がいいくらいだねぇ。あたしなんかもう齢で歯はぼろぼろ、とてもとても君のようになんか噛めない。ジューサーでジュースにして飲むしかないんだから、全く情けないよ。君達のその丈夫な歯は、君達の若さのしるし、青春の輝きだ。前途洋々だねぇ。年齢の<齢>という字は歯という字がついているだろう!?漢字というのはよくできてるいるねぇ……」
秋風にふくみてあまき葡萄かな 久保田万太郎
「いい陽気になったねぇ、暑からず寒からず……。九月の末から十月、十一月というのは、身も心も澄みわたるような、人間が一段階二段 階も上等になったような感じで、本当に秋というのはいいねぇ。芸術の秋。読書の秋。食欲の秋……。ありがたい季節だ。うまいね、この葡萄……。うん、うまいよ。このあまみがなんともいえない。ああ爽やかな風だ。この好時節、なおお互いに精励精進して、一日一日を大事に生きたいもんだね!!
ひぐらしに燈火はやき一間かな 久保田万太郎
まだ暗闇は訪れていない黄昏のひととき、原稿用紙に向かって熱心に執筆しています。手元がいささか昏くなったなと思い、やおらスタンドの灯りを点けました。すると、カナカナカナ……。とひぐらしの声……。あと十枚か、ああ疲れたな……。とでも呟いて煙草に火をつけ、肩の凝りを自らの手でほぐす作者の心の奥深くまで、カナカナカナ……。ひぐらしの声はしみ透るようです。
わが家さへ逃れたきとききりぎりす 大野林火
帰るという世にうとましきことのあり 夜更けて今日もとぼとぼ帰るという若山牧水の短歌があります。男の身勝手、と言われそうですが、男には家庭という小さな城が、とくにこれといった 理由もなしにほとほと厭になる時があります。ああ誰にも煩わされずに、ひとりき気儘な旅にでも出たい、と心底想う時があります。この俳句もそうした気持を詠ったものでしょう。どこかへ行ってしまいたいと思った時、それを想い止まらせるかのように、きりぎりすが鳴いたのでしょう。
妻娶るまでの母と子檸檬切る 藤本静子
長男の縁談が纏まりました。母親としては嬉しいような淋しいような。ああ、わが子についに他人様がついに来るのか……。そうした気持ちもないではありません。「おかあさん、紅茶にレモン入れたほうがいいよ僕、切ってあげるよ。あんまり薄く切らない方がいいな。けちけちしたってはじまらないからな……。はい、レモン……おかあさん」母の心はまことに複雑です。
人生の十七文字を拝借し、私は自分なりに愉しい想像の世界に遊び続けてきた。自分では区はつくれないのに、人様の俳句のお陰で、私は長い間、<小さなドラマ>を放送で語ることができた。 借用した俳句は歳時記や各誌の排誌からで、有名無名を問わず、俳人の皆様の心からなる感謝がある。 ただ私が描き出したドラマは私なりの鑑賞で、俳人の方々が描いたイメージとは遥かに遠い処にあるかも知れない。 さぞ独断と偏見に満ちているであろうことを私は承知している。その点深いお詫びがある一方で、作品は発表された以上、その解釈は、鑑賞者の自由な想像に任されるべきである……という想いは変わっていない。
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