わたくしは、(<わたし>という言葉は放送でアナウンスする場合、なにか不遜な感じがして使ったことがありません…)本当のところを申しますと、<下手の横好き>の格言通り、放送することよりも、文章を綴っていることの方がはるかに好きです。
ですから公休日とか、暇な時間がある時は、ほとんどといっていいくらい、なにか物を書いています。
あとは読書のほか、これといって何の趣味もありません。
だからといって、二十四年間も勤めてきたアナウンサーという職業を、決して卑下もしていませんし、また逆に特別誇りをにも思っていません。適当量の歓びを感じているというのが本音です。
放送は愉しい仕事です。やり甲斐のある仕事です。というのは、よかれあしかれすぐに反響があるからです。
ですから永の歳月、いまだにやめずに続けている訳で、最近は、僭越な云い方ながら、お蔭様で、わたくしごときアナウンスに、ずいぶ多勢の方々から御支持を得るようになりました。ありがたいことだと思っております。
物を書く――といっても、もとより才能の無いわたくしに、それこそ読者の鑑賞にたえるような小説や詩が書ける筈もなく、一人の親友にあてて、ほとんど毎日のように書き送る、いわば身辺雑記のような手紙が大部分です。
この行為は、もうずいぶん長い年数継続しており、一日平均原稿用紙三枚にあたる量の文章を記することを愉しいノルマとして自分に課しています。
そしてこのことが、いささかでもアナウンスの精神的、内容的な向上に役立っていると信じており、わたくしにとって、これ以上に充足するものは、ほかに見当たりません。
そして、その友は、わたくしの手紙を、日づけ順に、一ヶ月ごとに、そして一年単位というようにきちんとファイルに綴じ、大切に保管してくれており、これも原稿用紙の枚数にすれば、すでに数千枚が彼の手元にある勘定になり、その深く熱い友情に、わたくしは、いつも感謝の想いを抱いています。
そんな訳で、この本は、拙い文章を書くことが、毎夜の晩酌と同程度に好きなわたくしが(去る一月、再度にわたる外科手術後は、以前より、かなり酒量を減らしています)、実際に声として電波にのせた自作の放送原稿をあつめたものです。
わたくしはテレビの画面に顔を出すことが嫌いです。嫌いです――といって云い過ぎなら、とにかく苦手です。
わたくしの業務は主として語り手(ナレーター)ということになっておりますが、語り手とうものは、蔭の声であることに意味があるのであって、この貧しい容貌を、人様のまえに曝す勇気の持ち合わせは、若い日ならいざ知れず、今や全くありません。
放送に詩心(うたごころ)を添えたい――。
放送から詩心を感じでいただきた添えたい――というのが、いつもわたくしの最も深い希いであり、目標です。
そ希いや、目標を充たしているとはゆめ思いませんが、「ああ、あの頃、中西とかいう名前のアナウンサーが、そういえば、こんなことを放送(い)っていたな……」というふうに、この本を読んで下さる皆様方の、ある種、想い出のよすがとしていただけたら、これ以上の倖せはありません。
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