あれから何年経っただろう。ラジオの<一冊の本>という番組の録音で、作家の森敦先生に論語について伺ったことがある。
先生のお話は緩りとしたテンポだが、聞き手を飽きさせないサーヴィス精神に満ち、先生自身の高揚した感動に直に触れる思いの、大変な話術であった。録音が終った後の雑談の中で先生は言われた。
「私は、文学というのは最終的には手紙に落着くと思うんですよ。私たちは立派な作品を生んだ数多くの作家に恵まれていますが、いい仕事をしたそれらの人たちは、みんな一様に夥しい数の手紙をいろいろな人たち宛てに書いている。そしてそれらの書翰からは、人間の本音というか真実というか、喜び哀しみ憂い煩いのすべてが手にとるように判る。生きている間に一通でも多くの手紙を書く。うまい下手はあるでしょうが、そういう人はそれだけでももう立派に文学者ですね……」
この時より数年も以前(まえ)から親友S君宛にほとんど一日おきぐらいの割合で身辺の雑記を送り続けてきた私は、先生のお話で益々意をつよくした。私は文学者ではないし、いくらそれになりたいと思っても才能がないことは充分に知っているが、手紙という形によってものを書く行為は断じて放棄すまい……と固く心にきめた。
齢(とし)をとったので昔ほどに積極的とはいえないが、S君宛てにばかりでなく、いまでもその作業は続けている。
ものを書くということは自分自身の内に住むもう一人の自分と対面し、その自分に話しかけることだと私は思っており、だとすれば一日のうちの限られたその時間は私が生きている証(あかし)でもあろう。
この本を収めたのは、昭和五十二年の一年間に私がS君宛てに書いた手紙の一部である。S君はいつも彼宛てへの私の手紙を大切に保管してくれている。
その当時私は、毎週土曜夜に放送されていた十五分間のテレビ番組<きらめくリズム>のナレーションの担当であった。番組は歌のない歌謡曲、主役はバンドの演奏で、歌詞は曲の進行に合わせて字幕で画面に出た。そしてムードを盛り上げるために、曲が始まる前に私の語りが入った。その放送原稿は自分で書いた。僭越だが好評だった。私はそれをおでん屋の片隅やスナックの一隅で書いた。泥酔は勿論駄目だが、ほろ酔いは貧しい想像力の羽を拡げる。締め切りに追われ書けずにいらいらしたこともあったが、おおむね愉しい作業であった。そしてこんなものを書いたとすぐにS君に送った。したがってこの本にはそれがだいぶ載っている。
当時高校生と小学生だった二人の男の子はいま社会人と高校生である。大きくなったものだ。七年という歳月のもつ意味は深い。
こんな程度のものしか書いていなかったのかという自嘲は禁じ得ないが、同時に懐かしさに胸熱き思いもある。
いつまで経っても自ら得心のゆくようなものは書けないが、この本が肩の凝らない読み物であるとだけは思っている。ご一読を賜りたい。
昭和五十七年五月
中西 龍
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